M&Aにおける売買価格は、株主としての権利が法的に移転する売買取引の実行時点(クロージング日)における価値に基づき決定されることが経済合理性を有しています。しかし、企業価値評価は対象会社の確定した過去の財務情報をベースとして行うため、その評価基準日とクロージング日にはタイムラグが生じることになります。

 対象会社が評価基準日からクロージング日までに利益を計上し資金が増加すると、ネットデットが減少(ネットキャッシュが増加)することから事業価値が変動しない限り評価基準日からクロージング日までに株主価値は増加します。にもかかわらず、当初に株式価格で合意して価格調整を行わない場合には、売主がこの間に獲得した利益を放棄してしまうことになります。

 このため、評価基準日からクロージング日までの間の価値変動分を売買価格に加減する調整を行うことが売主及び買主の両者にとって公平であり、この調整を売買価格調整とよびます。

 米国の非上場会社のM&Aの9割以上でこの売買価格調整を行っているのですが、日本の中小企業M&Aマーケットではほとんど行われていないのが実態です。つまり、多くの株式譲渡取引において基本合意時で提示された初期的な価格が株式価格として合意され、そのままの価格で売買が成立してしまっているのです。

 日本でもバイアウトファンドなどのフィナンシャルバイヤー同士のM&Aのように価格調整条項が詳細に定められることもありますが、非上場のオーナー会社の売却において価格調整条項が定められていないのは慣習というよりはそもそも売主側の価格調整に関する知識がないことが主な要因と考えられます。

 特に中小企業の場合、決算処理がタイムリーに行われておらず、評価の基準となる財務情報が古くなり、評価基準日からクロージング日までの期間が長くなる場合にはその調整すべき金額も多額になる可能性があります。

 そこで、売買価格に関して売主側が本来受けられる利益を放棄してしまわないよう、価値変動の要因とその調整方法に関して理解しておくことが重要です。

株主価値の変動要因と価格調整対象

 株主価値は、事業価値±非事業用資産・負債ーネットデットと算出されるため、株主価値の変動要因には、①事業価値の変動、②非事業用資産・負債の変動、③ネットデットの変動の3つの要因があります。
(「売却における企業価値評価の重要性」参照)

 このうち非事業用資産・負債は、通常クロージング前に換金ないし引取りが見込まれネットデットの変動に集約されることから、株主価値の変動は事実上、事業価値、ネットデットの変動という2つの要因に絞られます。

 ここで、価格調整を行う場合であっても評価基準日とクロージング日の間において事業価値は変動しないことが前提であるため価格調整の対象外とされます。  ただし、残るネットデットの変動の全てが価格調整の対象になるわけではありません。なぜなら、この間のネットデットの変動は、利益の増減のほか運転資本の増減や設備投資支出など様々な収支項目が含まれており、それらが全て株主価値の増減につながるわけではないからです。

 したがって、評価基準日からクロージング日までのネットデットの増減のうち株主価値の増減に関連しないものを除外する調整が必要となるのです。

価格調整メカニズム

 評価基準日から取引実行時までの価値の変動をどのように取り扱うかによって①Completion Accounts、②Locked boxの2種類に分類されます。 簡単にいうと前者が価値の変動を調整する方法で、後者は価値の変動を調整しない方法です。

⑴ Completion Accounts

 M&Aプロセスにおいて、基本合意や一次入札における初期的な価格は、これまでに開示されたインフォメーションメモランダム(IM)やその他の財務情報に基づき企業価値評価を行ったうえで決定されます。

 その際、価格調整を前提としたM&A案件においては、初期的な価格は事業価値ベースで合意し(キャッシュフリー/デットフリー)、その後クロージング日のネットデット(キャッシュ/デットライクアイテムを含む)の金額を事業価値に加減する方法により行われます。

 しかし、上記に記載したとおり、ネットデットの増減のうち株主価値の増減に関連しない項目を除外する必要があります。この除外すべき項目の代表的なものが運転資本の増減であり、米国での売買価格調整のほとんどで運転資本調整が利用されています。

 運転資本調整では、評価基準日よりもクロージング日の運転資本額が増加(減少)していれば売買価格に加算(減算)します。初期的な評価において評価基準日の運転資本額が開示されていた場合には当該基準日での金額を利用することができますが、開示されていなかった場合には正常な水準の運転資本額であったものとされます。

 ここで運転資本額の正常な水準をどのように決定するかは交渉上の問題ですが、合意した一定期間の平均額により算出されることが一般的です。また、運転資本に含めるべき科目について売掛金、棚卸資産や仕入債務などの主要な運転資本のほか、その他の流動資産・負債のうち含めるべき科目についても議論が必要です。

 また、クロージング日にネットデットに加減するキャッシュ/デットライクアイテムについて、契約締結時にその項目を合意しておく必要があります。通常、既に計上されている仮払/未払法人税等はキャッシュ/デットライクアイテムとされますが、クロージングまでに発生していると見込まれる進行期の法人税についての取扱いについても検討すべきと考えます。

 さらに、評価基準日からクロージング日までの資本的支出について、支出が予定されていたものが留保されたことによる資金の増加すなわちネットデットの減少分については、価値の増加と扱うべきではないことから、クロージング日までに予定される資本的支出に関する合意と過不足に関する取り決めも必要となります。

 売買価格調整については、合意された会計方針のもとでクロージング日の貸借対照表を作成し、その妥当性を当事者間で確認した後に最終金額が確定され精算されることから、手続面で煩雑になり、調整に異論が生じることになれば長期化してしまうリスクも存在します。

⑵ Locked Box

 上記のとおりCompletion Accountsが手続面で非常に煩雑であることから、考え出された手法がLocked Boxです。欧州のM&A案件にて一般化している方法であり、過去の一時点(ロックトボックス日)における貸借対照表上のネットデット、運転資本の金額により買収価格が決定され、その後の調整は行われません。

 買収価格が決定した後に問題が判明しても価格は変更されないため、買収価格決定の基礎となるロックトボックス日における財務諸表の信頼性が重要であり、買主側の財務デューデリジェンスが広範かつ精細に行われることが予想されます。

 また、買収価格が固定されていることからロックトボックス日以降の経済的利益は実質的に買主に移転することになります。しかし、依然としてクロージングまでは売主が会社運営しており、その間に配当や経営陣への賞与支給やその他の取引などにより価値の流出が行われた場合、買収前に買主は損失を被ってしまいます。

 このような価値の流出を防止するために株式譲渡契約書において、リーケージの禁止条項が定められ、これに違反した場合には譲渡価額から減額する措置がとられることになります。

 一方、売主にとっては経済的利益の移転が行われることで早期に経済的リスクが回避されるというメリットがあると言われますが、収益性の高い会社の売却にあってはロックトボックス日以降の利益を放棄することとなりむしろデメリットとなってしまいます。

 その結果、収益性の高い会社の売却の場合には、売主はロックトボックス日以降の事業運営に対する対価(ティッキングフィー)として、譲渡価格に対して一定利率を乗じた金額を要求すること合理的と考えられますが、利率の決定においては、会社が獲得するであろう利益に見合う利率でなければ合意することは難しいでしょう。

事業譲渡における売買価格調整

 事業譲渡の場合、譲渡対象となる事業の財務諸表(カーブアウト財務諸表)が作成され、移転する資産・負債、契約や人員などが特定されることになります。このカーブアウト財務諸表には通常現金預金や借入金は含まれません。

 すなわち、事業譲渡の対価は事業価値であり、ネットデットは含まれないことから評価基準日からクロージング日までに獲得した利益による資金増減は価格調整対象ではありません。

 ただし、カーブアウト財務諸表上の運転資本の金額とクロージング日の運転資本額との差額については、株式譲渡と同様に調整すべきです。また、事業価値を適切に維持するため、事業譲渡契約書上、予定されていない固定資産の購入・売却などを行わないことを定める必要があります。

結論

 株式譲渡契約において価格調整を実施する場合、厳密に実施するとかなりの手間と時間がかかります。そこで価格調整を実施するかどうか、実施する場合にはどのような方法で行うかを決定するためには、金額的影響を事前に分析することが重要となります。

 売主にとっては得られるはずの利益を放棄しないようにすること、金額的に重要な項目のみを調整対象とし、手間と時間がかからないようにすることが適切と考えられます。運転資本の増減に季節性がない会社であれば運転資本調整の影響も軽微と考えられることから、恣意的に売上代金を早期回収したり仕入代金の支払を延期したりすることを防止するだけで足りるかもしれません。

 このような分析・調整方法の決定はディール経験の豊富なアドバイザーの力量が試される事項ですが、中小企業マーケットではほぼ適切に行われていないのが実態ですので、売主においても、売買価格調整の必要性を判断するために、上述の内容程度は理解しておく必要があると思われます。

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